2014年6月9日月曜日

青いイルカと泳いだ日・クリエイティブ・芸術的な表現の背景

小説にも様々なジャンルがあり、ライトノベルから、 軽い恋愛ドラマ、シリアスな悲恋もの、社会的な背景の強いもの、歴史物、推理小説、SF・ファンタシー小説など多岐に渡ります。  

映画やテレビドラマの脚本は小説と同じ路線にあり、作品として文字で綴られるか、最終的に映像として描かれるが違いです。
 

しかし基本的には作者の頭の中から生まれでたことに代わりはありません。
 

 書き手の想像力やイメージ力、リサーチ力、考察・洞察力、そして書くという技術を駆使して作り出された世界だということです。
 

 私はその他の小説家の方たちがいったいどのようにして独自の世界を作り出し、それを文字を駆使して表現するのか皆目検討もつきません。
 

そんな理由で他の作者たちがどういう行程を通じて小説または脚本を書くのかにとても興味があります。
 

いったいどのようにして小説や脚本のアイデアが生まれるのか?
 

 その中の登場人物やそれぞれの背景はどのように作られるのか?

 

 ストーリー展開のアイデアや結末は、いったいどんな形から引っぱり出されるのか?
 

 いったいどんな経緯や背景で一つの作品として生まれるのか?
 

 私の場合、作品の内容や質と同じくらいに、作品の舞台裏を描いた類いの内容には逆らい難い魅力を感じます。
 

 近年の映画のDVD化には制作の舞台裏やコンセプトアート、プロデューサーや俳優を含めた関係者たちのインタヴュー、撮影されたけれど使われなかったシーンなどを収録したエクストラがフューチャーされていることが多くなってきました。
 

 私は映画を観終わったらこの部分を観るのが好きで、ものによっては〝へぇ・・・こういう風に生まれたの?〟と驚きを隠せないドキュメンタリーを収録しているDVDに出会うとグイグイ見入ってしまいます。
 

 映画であれ小説であれ、また絵画やアートなどという作品は、それが生まれた背景を知ると、その作品に対する捉え方が大きく変わってしまうことが多々あります。
 

 作品に対する理解の幅が大きくなるほど、受け取り方が変化するし、作品を通じてわからなかったことも、解説を聞くと的確に解ったりするからです。


オキーフ、ピカソ、ゴッホの視点
 

近代アメリカで有名な女流画家としてジョージア・オキーフが並べられますが、彼女の作品はいろんな場所で観ていたので名前と作風は知っていたし、エネルギーがある絵だとはわかっていました。
 


しかし呑めり込むほどに好きな画家ではありませんでした。

そしてニューメキシコ州のサンタフェに行った時に、観光ついでだと思ってジョージア・オキーフ美術館にも足を運んでみました。
 


まず驚いたのは、凄いことに美術館に隣接したリサーチセンターまであり、彼女自身が研究の対象にまでなっていることです。
 


画家もここまで認められると、作品を通じただけの評価や人気、知名度ではなく、一人の人間としての賛美になるわけですから、画家またはアーティスト冥利につきると思います。

美術館に入って展示されている作品を見て回ったのですが、収蔵されていた作品の数は思ったよりも少なく、その時の私にはあまりピンと感じるものはありませんでした。

それから小さな上映室で短い彼女のドキュメンタリーを観たのです。
 

それは私にとって意外なもので、映画の中で彼女の一部を知ったことを切っ掛けにしてオキーフという女流画家の描く世界に魅力を感じ始めたのです。

そして旅行から帰ってきて彼女の人生をドアマ化したテレビ映画を観ました。

彼女が歩んできた人生の道、その中で潜ってきた精神的な葛藤や様々な苦難を知ることで、より深く作品を理解できるようになりました。

それまでわかったようで、でも感覚の深い所で解せないと思っていた彼女の作品に対する意識は完全に翻ってしまいました。

私の場合、それまでなかなか解せなかったオキーフの作品を理解することの鍵は、作品ではなく、画家という存在、彼女の人生の中にあったのです。



オキーフだけでなく、画家やアーティストが描きだす作品たちの中には、作家自身の人生の一部が塗り込められ、作家の視点や心、感情などが必ず現されています。

絵画であれ詩であれ、小説であれ映画であれ、それを鑑賞する人の心が、対峙している作品から滲み出ている見えないなにか、作品そのものが保持している作者の心の一部に触れることができなければ、感動や感銘を受けることは難しいのだと思います。

そして作品を観る鑑賞者として、観る人の心と感覚が作品そのものと真正面から対峙できる準備も整っている必要もあります。

作品と鑑賞者の関係は化学反応のような部分も多々あり、両者の感覚がピタリとマッチした時に鮮烈なインパクトの火花を弾き出すのです。
 


私 V.S. オキーフの場合は、鑑賞者側の私の内面の準備が整うまで、オキーフの作品が自分に深く訴えてくることはありませんでした。

しかし、ジョージ・アオキーフという一人の女性画家の人生を知った後から、それまで感じられなかった、絵が抱えているエネルギー的な〝記憶〟を受け取れるようになったのです。

画家の視点が作品に現されるわけですが、その視点がどこから生まれているのかがわかると、作品から伝わってくるものが大きく別次元的に変質してしまうのです。

それまで受け取れなかった領域のもの・・・
 


もっと奥行きがあり、微細な、ある意味〝神懸かりな啓示〟とも言える別次元の記憶に似たものを受け取れるようになりました。

オキーフだけでなく、ゴッホもピカソも好きではなかったのですが、彼らの人生と作品の関係を聞いた時に、二人の作品に対する意識は完全に変わってしまいました。

ピカソに至っては、後期の作品はそれまでナンセンスで狂気だとしか思っていなかったのに、彼の晩年期のことを知ってから、一枚の絵の中で多次元的に移動する彼の視点の足跡が立体的に浮き上がって見えるようになったのです。

そして作品そのものが呼吸をしている、生きているように感じられるようになりました。

ゴッホの一つの作品から受けた体験はその極みでした。

ホノルル美術館に彼の小さな作品が常設展示されているのですが、なんど作品の前にいっても感受性のアンテナが立たないのです。

西洋美術史の中でゴッホの位置は知ってたし、彼の作品の基礎的な知識は持ち合わせていました。

ゴッホの晩年期の作風はその他の後期印象派の作品とは違い、キャンバスに絵の具を塗り込めるというより、絵の具を厚めに置いていくという手法なので一般的な絵画よりも遥かに立体的な作品です。

そして写実的な描き方ではなく、視野は湾曲気味で感覚的、色の使い方も混色のされ方が少なく彩度は高め。

エネルギー的に強い絵だとはわかっていましたが、その先まで受け取ることはできませんでした。

そしてサイキック的な感覚が飛躍的に成長し始めていた時期に美術館に行ったのですが、この時から芸術作品に関する鑑賞の仕方が全く変わってしまいました。

感覚というのは不思議なもので、その時の健康状態にも影響を受けるし、成長させることも可能なものです。

とても感覚的に研ぎすまされた状態で鑑賞してまったのですが、ゴッホの絵の近くに行った時の鮮烈さは今でも忘れることができません。

ちょうどゴッホの絵が掛かっている壁から10メートル位の位置に入ると、グイグイと絵の方へ引っぱられるのです。

この時に絵画にもオーラというものがあるのだと明確にわかりました。

引っぱれる先をみたらゴッホの絵で、その作品の周囲はとても明るく、絵に近くなればなるほど輝いて見えるのです。

そして1メートル近くまで近寄って観たのですが、以前とは違った立体感+存在感を放っていました。絵の具の色彩さえも、以前より遥かに色鮮やかに目の中に入り込んでくる。

それまで絵の具の置かれた〝流れ〟を感じたことはありませんでしたが、タッチから放出されている微細な波動、放たれている小さな光りの集積がまるで生き物のように動いて見えたのです。

絵の具の置かれ方は、やや立体的を超えて3D映像のように浮き上がり、 一枚の絵であるにも関わらず、アニメーションのような動きが立体的に放たれていました。

そして彼が観ていたであろう、風と雲の動きと、それに伴う光りの交錯が麦穂の間から出現してきました。

その眩しさは神々しさとも呼べる感じの輝きで、その先を見ようと思ったら、そこから出て来たのは漆黒に近いダークグレイの暗闇。

まるで神々しさの輝きの中心にブラックホールが浮き出ている感じです。

そしてその暗闇の中で待っていたのは、うずくまる黒猫のようなネコ科の動物の黄色い両目でした。

そこでゴッホが自らの命を絶ってしまった理由が何となくわかった気がしました。


作者の人生を知ることで作品の奥行きは変わる

どのような質であれ、作品というものは、それを世に送り出した作家の一部です。

画家や作家の人生の流れと作品の背景を知ると、絵や物語りが別の輝きのエネルギーを現し始めます。

それはまるで絵または作品の謎を紐解く秘密の鍵を手にしたようなもの。

鍵をまわしてドアをあけ、注意深く作品そのものの中に入っていくと、描いた人の視点が自分の中に流れ込みはじめます。

それは時に描き手の感情だったり、筆の行き来だったり、考えのようなものだったり、作品には現されていない別の映像だったりします。

全ての感覚を総動員してそれらを追いかけるように受け取っていくと、それまで平坦気味だった作品が立体的に浮き上がるように視えはじめます。

芸術的な作品というのは、芸術性の中に、作家の記憶の一部を抱えているのです。

感覚を通じてその多次元的な奥行きにゆっくりと共振して同化することを許していくと、作品のエネルギーと自分の人生の記憶が重なり始めます。

そこで何かしらの共鳴が起こることで観る人は感動したり触発されるのです。

一般的に頭で感動するとは言いません。

感動を受け取る、感じるのは心または魂の領域です。
小説、映画、絵画では趣が違いますが、作品を理解するときの鍵は基本的に同じです。

作品のテーマや完成度、放っている力強さや磁力、エネルギーの力も大きなファクターですが、鑑賞者の心の位置、人生の経験値、肉体的なコンディションも含めた総体的なバランスの状態、そして精神性が最も大切だと思います。

なぜなら、 どんなに凄い作品だと称賛されていても、鑑賞する側の準備ができていなければピン!とこないこともありえるからです。

小説「ブルー・ドルフィン」は海外GLBTテーマなので、一般的だとは言い切れません。

小説内で書かなかったこと、書き足りなかったこと。

それに加えて、どういう風に「ブルー・ドルフィン」が生まれ、どんな感じで綴られていったのかを「青いイルカと泳いだ日」の中でエッセイ風に書いてみました


そこから小説世界をもっと身近に感じていただけたら幸いです。



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2014年6月8日日曜日

青いイルカと泳いだ日・3Dモデル

アロハ
先日の続きで執筆の仕上げに入っているピクチャーBOOK「青いイルカと泳いだ日」からの抜粋です。



1993年から北米シアトルでNINTENDO関係の攻略本レイアウトを数年間手掛けていました。

この時期に3Dソフトウェアを使ってイラストを作ることもあったのですが、その頃の3Dソフトは今よりも遥かに難度が高く、本格的に使いこなしていたわけではありませんでした。

近頃は3Dソフトそのものが以前より進化して使いやすくなっているので、数年前から暇な時にいじって遊んでいたのです。

それに新しいソフトは実際に入り込んで学ばなければ使えるようにならないので、これを機に思い切って挑戦してみることにしました。

3Dで頭の中にあるキャラクターのイメージを表現してみようと試行錯誤を繰り返し、実験的なレンダリングに挑戦した結果、なんとかなりそうに思えたので本格的にキャラクター・デザインに入ってみました。

キャラクターデザインの中で最も難しかったのが〝顔〟と照明です。

デジタルに構築された空間は、どのように照明が入るかでガラリとイメージが変わってしまう。光りがオーバー気味でも、暗過ぎでもNGになるし、光の具合で質感も大幅に変わってしまう。

3Dの難しさはモデリングとプロップや背景のプロダクションだけではなく、カメラワークからライテイングまで関係する映画の世界に近いということが良くわりました。

「ブルードルフィン」はもともと映像的な小説として書いた作品ですから、映画的なフレームの3Dイラストに落ち着いたのにも意味があったのだと思います。

キャラクターデザインは予めソフトウェアの中に入っている人物モデルの顔と身体を好きなように改造するのですが、身体の方に難しさは感じませんでしたが、〝顔〟の制作に苦労しました。

一人のキャラクターの顔を作り出すのに一体どれくらいの顔の造作に挑戦したことか。

それぞれの顔を作る手始めとして、映画俳優の様々な角度の顔写真を集めて参考に制作し始めてみましたが、想像していたより遥かに難しく、なかなか思ったようなイメージの顔に近づかないのです。

想像以上に困難で、下手に誰かに似せようとする方が余計に難しいと思いました。

色々といじっていたら、意図しない顔ができあがってしまったり、横から見たらトムクルーズなのに正面から見たら別の人。

下から見上げたらブラッドピッドに似ているのに、普通に捉えたら別人という具合が続きました。

例えば、トムクルーズの顔写真を見ながら平面の紙にデッサンしてリアルに描き出すのは私にとって難しいことではありません。

しかし3Dとなると全く別次元で、こちらの方が遥かに難しいのです。

そこで俳優に似せるのではなく、再び頭の中の世界に戻って、それぞれの顔を彫り出しながら立体化すことに専念しました。

3Dは平面の紙の上にデッザンするのとは違い、360度の立体ですから、イラストで描くというよりは、彫刻に近いものです。

実際の彫刻はノミで掘り起こすのですが、コンピューター上で土台の石に触って、眺めながら削ったり、粘土のように少しずつ加えて形にしていく作業とは全く違った方法です。

土台となるアンドロイドのような個性がまったくない基本の顔から始め、眼の位置や形、大きさを整え、鼻筋を調節し、高さや形を変え、口の位置を決めて、唇の厚さから幅、眉毛の高さ、頰の張り出し具合や、顎の形、それに肌の色を変えたりと、多角的に調整し続けるのです。

そして頭の中にあるイメージに近い顔が現れるまで延々と作業を続けました。

それらの行程の中で気づいたのは、頭の中のイメージというのは、自分で思っているより抽象的+柔軟性が高いもので、この経験は自分でも興味深いものがありました。

実際に立体的な角度で各キャラクターの顔や身体が具体化されていく段階で、少しずつ光が当たって明確になり、立体化していきます。

しかし何とか自分なりのキャラクターのイメージに近い出来具合になった時には、始めた時とはかなり趣の違う顔で現れるのです。



三人の主人公達は制作を始める前から明確なイメージ+雰囲気があり、試行錯誤はしましたが比較的速く形になりました。

サブキャラクター達の顔や体型は元々から具体的なイメージというよりは雰囲気の方が遥かに強く、固執した顔のイメージもなく、また執着も少なかったので苦戦はしませんでした。

キャラクターの中で最も挑戦的だったのは、主人公の対になる愛人達です。

ブルードルフィンという小説は、性転換して女性になったCOCOをのぞいて、ホボ男しか登場しないという変わった作品です。

そんな背景なので男のヴァリエーションが必要で、同じようなイメージの男の顔は並べられない。

それに綺麗で美しく整った顔ばかりでも現実感がなくなってしまうし、個人的にファッションモデル的に美しすぎる顔は好きではないので、個性的な味のある顔にしたいと思いました。

しかし下手にいじりすぎると現実的な雰囲気を離れて人間離れした漫画的な顔になってしまうし、3Dソフトの同じ基本顔からの発展なので似たような面になりやすい・・・。

手掛け始めた頃は実験段階的な試行錯誤の多い状態でしたが、次第に3Dソフトの使い方にもなれ、少しずつ要領がわかりはじめて上手くなっていきました。

そして3Dで顔を作りだし、身体の肉付きを彫り、キャラクター達が個性を持ち始めるようになると、まずはそれぞれの登場人物のイメージ制作に挑戦しました。

顔や身体の作りだけでなく、それぞれの個性にあった服を着せ、ポーズをとらせてイメージSHOTをレンダリングし始めました。

そこで満足していたらよかったのですが、全く飽き足らず、さらに先に進んで、小説という世界をもっと具体的なイメージとして作り出してみたいと思うようになったのです。

それから人物像だけでなく、プロップと背景を加え、シーンを形にし始めたのです。

そこから文字だけで書かれていた小説世界が立体的になりました。

これから3D次元に生まれた登場人物達と一緒に、小説「ブルードルフィン」の世界とその裏側をご案内します。


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2014年6月7日土曜日

青いイルカと泳いだ日・ピクチャーBOOK

アロハ
小説「ブルー・ドルフィン」を含めて今まで5冊の著作を出版させていただきました。

そして今回の「青いイルカと泳いだ日」は、これまでの本とはさらに違った趣向と構成で、この本の主体は小説の舞台裏的なエッセイと3Dイラストレーションです。 
 


本職の広告デザインにしても、もともとグラフィック関係のデザイナーになりたかったわけではなく、デザイン業界に入った切っ掛けはイラストレーターになりたかったからでした。

しかもスーパーリアルと呼ばれるエアーブラシを使った現実に近く描くイラストレーションの世界です。

19歳でデザイン事務所にカンプライター兼イラストレーターとして雇用されたのですが、絵が描けるのだからデザインレイアウトにも挑戦してみなさいと進路を変更され・・・。

レイアウトやデザインだけでなく、イラストや絵コンテ、アートディレクション、必要であれば写真撮影も手掛けるマルチなグラフィックデザイナーの道へ進むことになってしまいました。

広告デザイナー時代にはテレビコマーシャル用の絵コンテを描く仕事も多々こなし、 ディレクターから送られてくる単純な舞台設定、短い台詞、画面に入るテロップなどの箇条書きを一枚のボードに漫画のようにコマ割りして一枚の漫画のページ的に仕上げたものです。

このピクチャーBOOKには小説の背景に沿って、3Dで制作した登場人物のイメージと、幾つかの場面を盛り込んであります。



私の脳はイメージ優先型で、スーパーリアルで具体的な表現に固執してしまいがちなので、頭の中にある風景やシーンを文章で表現するのに苦戦しました。

小説ですから、背景やら眼に映るものを、こと細かく文字で描写することに固執する必要はなかったと思いますが、私なりに映像的な視点で書きたかったのです。

その努力の結果は小説をお読みになった方はわかると思いますが、それが成功したのか、そうでないかは読者の判断に委ねるしかありません。

「ブルー・ドルフィン」は小説というスタイルですが、始めから映像的な場面を意識して生まれた作品です。

小説を完全に終わらせたら、後書きエッセイを膨らまして、エクストラフューチャーとして長年に渡って撮りだめしてある写真をふんだんに載せたコンパニオンBOOKとしてヴィジュアル本を作ろうと思っていました。

しかし写真を中心にして仮レイアウトを始めたら壁にぶつかったのです。

小説に関係する建物や風景は完全な空想ではなく、主にワイキキ周辺の設定ですから実物の建物や風景などの写真撮影は可能で、撮りだめした写真も沢山ありました。

でも登場人物はどうしよう? 

彼らは実際の人物ではなく創作ですから実体がありません。

そこで考えついたのがキャラクターを3Dでデザインすることです。

しかし、その反面でキャラクターのイメージを明確に提示してよいものか考えてしまいました。

出版に前に反応を知るために小説を読んでもらった友人達が、それぞれ登場人物をいったいどんな姿でイメージしているのか興味があったので聞いたら、それぞれ独自の顔で登場人物を捉えていたからです。

興味深かったのは、読み手によってイメージの作られ方が違い、私の視点からかなり掛け離れた姿で各登場人物をイメージしていた友人もいれば、小説内で描かれた人物像をまるまま受け取っている友人もいました。

小説を読みながら自分の頭の中で独自の小説世界をイメージ化するわけです。

それが読み手のイメージ力や想像力の違いによって大きく違うのです。

そんなことに気づきはじめ、読み進めながら自分なりのイメージで小説世界を作りっていくという創造性を奪って良いものか? 

私の中にある具体的なイメージで読者が作り出した独自のイメージ世界を侵略してよいのか?

しばらく考えたのですが、小説中に3Dで制作したイメージを挿入するわけでもなく、あくまでも別本なので思い切って登場人物を作ってみることにしたのです。


小説のジャンルの中にボーイズラブという少女漫画から派生した同性愛系の世界があります。

こちらのノベルはコミックと連動するケースが普通で、漫画家によるイラストの表紙と挿絵がつきものです。

しかし 一般小説の表紙にイラストが使われることはあっても、中身にイラストの挿絵が入ることは稀です。

小説ブルードルフィンの基盤はGLBTなので、ボーイズラブ的だと呼べなくもありませんが、全く同じでもありません。

このコンパニオンBOOKの構想を考えていた時に、長年友人の漫画家さんに頼もうかと思いました。

小説を土台にした完全な漫画化なら面白そうだと思いましたが、イラストとなると話しは別です。

漫画的なイラストだとさらにボーイズラブに近づいてしまうのでNGだと思いました。

そこで自分でスケッチ風にデッサンする、またはイラストを書き起こすことも考えましたが、30枚以上の完成度の高いスケッチなりイラストレーションを描きこなす時間も自信もありませんでした。  

そこに登場したのが私にとって新しい分野とも言える〝3Dソフト〟です。

当初は自分の中にあるイメージを3Dで作り出せるかどうか不安な部分もありましたが、キャラクター・デザインに挑戦したみたい気持は強く、とにかくやってみようと本気で取りかかってみたのです。




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