アロハ
今回は現在執筆の最終段階に入っているピクチャーBOOK「青いイルカと泳いだ日」の中からの抜粋です。
今回は現在執筆の最終段階に入っているピクチャーBOOK「青いイルカと泳いだ日」の中からの抜粋です。
2014年現在での私の仕事のタイトルはサイキック著述家ですが、元々は日本、シアトル、ホノルルで広告とデザインに関わる仕事をしていました。
頭の中はイメージ優先で、それをラフやイラスト化して、レイアウトと一緒に表現することにはなんの抵抗もありません。
仕事の成り行きでワイキキの広告を手掛けながらハワイアンの精神世界に引っぱられ、広告デザイナーからサイキックチャネルに転身し、そんな経緯の人が著述家として第一冊目の「聖なるハワイイ:ハワイアンのスピリチュアリティー」出版したわけです。
「聖なるハワイイ」の土台を書いていた時期はまだBlogというジャンルはなく、個人レベルのホームページでさえ一般的ではありませんでした。
デザイナーという仕事柄で早くからウェブデザインはかじっていたので、自分なりにホームページを作り始め、そのコンテンツとして暇さえあれば読みあさっていた英語のハワイ関係の本から学んだことをまとめ始めたのが始まりです。
この当時は日本語に翻訳されたハワイアン関係の書籍はひじょうに少なく、運よく見つけることができても一般的な内容で、私が求めていたハワイアンの精神世界に関するものではありませんでした。
そこで英語の書籍や文献を手当り次第に読み始めたのですが、総合的に上手く簡潔にまとめられている書籍はなく、どれも部分的でした。
そのために様々な書籍からの情報を自分なりに体系化し総合的な内容にまとめ始めたのです。
▲執筆中にデザインした表紙案
▲Amazon・Kindle用のBOOKカヴァー
そしてこの頃すでに「ブルードルフィン」は初期段階の脚本もどきとして書き始めていました。
「 聖なるハワイイ」は形になっていたので将来的に出版できればと妄想はしていましたが〝絶対に出版するぞ〟と出版社に送る努力をしたわけでもなく、「ブルードルフィン」に至っては英語で書き始めたばかりだったので出版を目指すなど考えてもいませんでした。
小説「ブルー・ドルフィン」は一冊目の「聖なるハワイイ」と同時期に書き始めた作品なので、この二冊には古代ハワイアンの精神性に通じる大きな共通点があります。
第一冊目の「聖なるハワイイ」の出版への道が開いたのは、友人が「もったいないから出版すれば?」と働きかけてくたお陰でした。
その理由は〝遺作〟となる懸念があったからです。
当時の私の健康状態は酷く、 正直なところ自分でもどれだけ生きていられるか自信はなく、実際に友人宛の遺書も書いたくらいです。
「聖なるハワイイ」の土台と「ブルードルフィン」を英語で執筆していた当時の私は、生きた屍ともいえるゾンビな状態で、鉛のように重たく感じる身体をひきずりながら、かろうじて仕事は続けていました。
しかし身体も心もボロボロで、極度の疲労と食欲不振、そして不眠症、さらには酷い鬱状態に入り、そこからパニックアタック+人間恐怖症になるという悪循環の中で生きていました。
普通に動きたいと思っても身体は思い通りにならない。お腹が空いているのかどうかも感じられず、何を食べても美味しくない。
食べたくなくても、お腹が空いてなくても無理して突っ込むように1日1回は食べる努力をしていました。
疲れているので横になって眠りたい欲求はあるものの、寝ると3Dハイデフニションでドルビーサラウンドの悪夢を朝まで見続けるので、それが怖くて眠れない。
何とか眠って朝起きたらすでに体力を使い果たしていてグッタリ状態という日々でした。
仕事場と家の往復は気力の勝負で、何とか帰ってきたら、次は間延びする時間との戦いが待っている。
体力も気力もゼロに近い状態だったので何もできず、テレビもビデオも観る気にならないし、インターネットでさえ疲れてしまうので、ただ横になって時間が過ぎるのを待ち、スイッチが切れるように眠る時間がくるまで起きているという生活が続いていました。
何もすることがない休みの週末ほど辛いものはなく、どうやって一日を乗り越えようかと考え途方に暮れてしまっていたのです。
そんな生活だったので、家に戻っても集中して〝形〟にする何か、全てを忘れて打ち込めるプロジェクト、何かを達成する目標が必要だったのです。
それを知っていた友人達には「もしかしたら逝っちゃうかも?」的に映ったのでしょう。
それで「出版しておいた方が」 と思ってくれ、同じ福岡県の出版社である書肆侃侃房を探し出してくれたのです。
結果として私は死なず、何とか生き延びて「聖なるハワイイ」を加筆修正して完成させ、本のレイアウトから装丁まで自分でデザインして入校し、追いかけで下書き的な状態だった「スピリチュアルに楽しむオアフ島」を本格的に書き始めました。
この頃には「英語版ブルードルフィン」の初稿はすでに書き終わり、日本語への翻訳を始めていました。
二冊目として出版された「スピリチュアルに楽しむオアフ島」に関しては、本体の内容を書くだけではなく、オアフ島の各地を巡って掲載する場所の写真を可能な限り撮影して廻らなければいけないという肉体的なチャレンジがありました。
そんな状態の私にとって 写真撮影はカナリの肉体労働でした。
極度の慢性疲労的な生活だからと甘んじて先に延ばすこともできたと思いますが、とにかく重たい身体に鞭打って家から出ることを心がけ、週末には付き添いにルームメートを引っぱってザバスに乗り、オアフ島のアチコチを歩いて撮影して廻ったのです。
こちらの著作も装丁から本のレイアトデザインまで全て自分で手掛けさせてもらいました。
一冊の本を全て自分の手で作り上げるという作業+デザイン工程は、時間と気力との戦い的な部分もありましたが、その当時の私にとっては命綱だったのです。
ある意味で、「聖なるハワイイ」「スピリチュアルに楽しむオアフ島」「ブルードルフィン:英語版+日本語版への翻訳」という本たちが私の命をつないでくれたのです。
これらの本を形にして出版するという具体的な作業と出版のゴールがなければ、途中でポックリ向こうの世界に旅立ってしまっていたかも知れません。
普通だったら自分の職種に沿った書籍、その当時の肩書きなら〝チャネリング情報〟や〝自己啓発〟〝スピリチュアル・エンパワーメント〟などの書籍を出版するのが普通だと思います。
しかし、あの当時は生き続けることで精一杯で、スピリチュアルな題目の新作に集中して書くどころではありませんでした。
そして自然の流れか宇宙の思し召しか、なぜかハワイアンな書籍が一作目の著作になってしまい、最初のハワイ系の二冊が出版された後は、サイキックチャネルという肩書きより、古代ハワイアン文化に詳しい著述家という位置に置かれるようになったのです。
ハワイアン関係の本を書いた人なのだから、そういう人物なのだと妄想されてしまうのは避けようがない当然の流れです。
この時点では、ほぼ自動的な流れで出版した書籍たちが、そのまま自分の肩書きになってしまうとは想像していなかったので意外な展開にかなり戸惑いました。
その後の健康は小康状態で、一時期は歩くのに杖が必要なこともありました。
それからすでに1991年に書き上げていた三冊目になる「聖なる谷:空中都市マチュピチュを超えて」の出版が決まり、こちらの方はスンナリと入校を終えました。
この著作は完成された状態だったので、一から執筆するという手間もなく、装丁からレイアウトまで手掛けさせていただきましたが、本体も一冊目と二冊目のように複雑なデザインレイアトではなかったので、体力勝負ではありませんでした。
その後に続いた四作目の「Hawaii de 花散歩」の制作に入り始めた時は、気力的にも体力的にも微妙なところにいて、何の予兆も無しに急に歩けなくなったりしました。
それでも花々や木々の撮影をし続ける必要があったので、足を引きずりながらでも家の周囲に咲いている花々を撮影して周り、そんな状況の中から何とか立ち直り始めました。
花と木々の写真を撮影しに身近な自然の中を歩いて廻ることで氣を受け取り、少しずつ体力回復へ向けて動いたからだと思います。
サイキックチャネルとして細々とチャネリングやリーディングを続けていく中で、再び自分を立ち上げるという必要性からサイキック的なエネルギーヒーリングに足を突っ込み、実験を繰り返しながら研究し続けました。
その延長線上でサイキック能力開発やエネルギー・ヒーリングを教えるようになったわけです。
私の著述家としての経緯はこんな感じなので、若い時から著述家や小説家になることを目指していたのではなく、気がついたらなっていたというのが正解だと思います。
そして最新作となる小説「ブルー・ドルフィン」は長編、しかも テーマはGLBT。
それに加えて3Dイラストを中心にしたエッセイ の出版ですから、肩書きはもっとややこしくなると思いますが、そんな人だと思って下さい。
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